あいうら 彼女の視線の向こう
彼女はなにを見ているのだろうか?
あいうら一話は徹底的にロングショットで画がつくられていた。
唯一許されたアップショットもバストショットの二度だけ。それもアバンとエンディング後のCパートのみである。本編では徹底して彼女から引いて画をつくっている。これはどういうことだろうか?
引いた映像は彼女の行動のすべてが見える。彼女を取り巻くすべてが見える。
だが、引いてしまうと一つ見えなくなってしまうものがある。
彼女の視界だ。彼女はどんなものを見て、どういう世界の見え方をしているのか。それが引いた映像では見えない。
普通のアニメは登場人物の視点でのカメラが入る。POV(主観ショット、カメラの視線と登場人物の視線を一致させるようなカメラワークのこと)ではないにしても、登場人物の目と同じ高さのカメラなどを使って、登場人物の見ている映像と視聴者が見る映像をある程度リンクさせるようにしている。これにより視聴者と登場人物の視点を共有し、感情移入などをしやすくする。
だが、あいうらではそれを一切しない。つまり、視聴者は完全に外部なのだ。
私たちは彼女と世界を共有できない。外側の観測者でしかない。
しかし、だからこそ想像できる。
彼女はどういうふうに世界を見ているのだろうか、彼女はなにを考えているのだろうか、と。
彼女が見ている世界と私が見ている世界では大きな隔たりがあるだろう。
階段をリズムよく駆け下りる彼女、電柱に手をかけて勢い良く走る彼女、幼稚園児に笑顔で手を振る彼女、そのすべてがかわいらしく愛おしい。
だからこそ、私と彼女が見ている世界では全く違うと確信持てる。
- 「高校の制服ちょっと大きかったかな……そのうちサイズ合うよね」
このセリフは高校と自分の未来への期待が込められている。彼女は今まで幸福に包まれ、周りに祝福された世界で生きてきたのではないだろうか。
何でもない毎日にも花が咲いていたね EDの歌詞より
彼女はこれからも幸せな日々を送るだろう。
私たちがこれからアニメで見るのは彼女たちのなんでもないけど、幸せな日常だ。それを私たちがどう感じるのか。
彼女との共感を止められてしまったからには、それをどう受け取るのかは純粋に私たちに託された。
そんな世界はあり得ないと拒絶するか
刺激のない世界でつまらないと思うか
笑顔に囲まれた彼女を笑顔で見守るか
それをどう受け取るのも自由なのだ。
これは『前日』のお話。
彼女たちがこれからの生活をどう彩っていくかは未知数。OPのようなハチャメチャな世界になるのか、EDのようになにもなくとも幸せな世界になるのか。彼女がどのような高校生活を迎えるのか楽しみだ。
『前日』でなくなることで、彼女の世界を知ることも、彼女の世界を見ることもあるだろう。まさに、なにが起こるかわからない『前日』に相応しい映像だった。
『あいうら』ほんとうに楽しみなアニメが始まった。