フォトカノとこれからと奇跡的な今
アニメ『フォトカノ』に存在するなにかが俺を惹きつけて離さない。
これはなんなのだろうか。同じようなことをゆゆ式を読んだときに感じる。
しかし、それとは異質のものだ。
ゆゆ式を読んでいるときに感じるなにかは、あの空間に居続けたいという願い。安らかな空間に浸っていたいという希望。
現実から離れた理想の空間。ゆゆ式は、そこにずっと居続けたいがために読み続ける。それがゆゆ式にあるなにかだ。
だがフォトカノはそれとは違う。あの空間にも居心地の良さがある。ずっとその空間に浸っていたいと思う。でもそれではない。フォトカノに存在するなにかは違う。
フォトカノには定まってない未来がある。それは不確かな未来。
フォトカノの原作はギャルゲーだ。
ギャルゲーとは未来の決まってない主人公のパラレルワールドを覗くゲーム。
開始地点0から1に行く世界、2に行く世界、3に行く世界、その提示された可能性のすべてをギャルゲーは覗くことができる。
ゆえにギャルゲーはあらゆる可能性を覗き見るゲームといえる(例外もある)。
0地点から開始される主人公。彼がどういう道を辿ってどこにたどり着くか。それを覗き見ることにギャルゲーの楽しさがある。
ではフォトカノはどうだろうか。この主人公は未来の決まっていない場所に立っている。いわば0地点。
この先だれと交流を深め、どこに至るのか。それはまだわからない。あの主人公は可能性のシンボルだ。だれと道を共にするか決まってない今の状態はプロローグに近い。
俺の希望はここに詰まっている。
彼はあれだけの美少女たちに囲まれながら、そのだれか一人に決めていない。王者のように中心に君臨し、泰然自若とし自身の行く末を見極めている。自身にどうしたいのかと問いかける。女の子に振り回されるのではなく、自身を問い気持ちの置所を探している。未来を探っている。
彼は浮き足立たない。美少女たちに引け目を感じるでもなく、卑屈になるでもなく、自然体で彼女たちと接する。それがこの話の基礎をつくっている。
足元がしっかりとしているから人に振り回されずに自分のことを考えられる。彼はただ好きなことをやっているだけというのが画面から伝わってくる。
アマガミの橘純一さんのように女の子と接することを目的化するのではなく、自然と女の子を惹きつける。その様を見ているのが気持ちいい。
物語はまだ始まっていない。彼は彼女たちのだれとでも道を歩める可能性を持ちながら未だにそれをしようとしない。
彼女たちの心を掴みかけていながら掴もうとしない彼。
危ういバランスの上に成り立ってしまった奇跡的な状況が俺の心を掴んで離さない。
心を決めかねて一歩目を踏み出すことを迷っている主人公。彼はこの先どんな未来も描くことが出来る。先が見えないがゆえに俺は希望を胸に抱きながら見ることが出来る。
フォトカノ、そんな奇跡がここにあった。