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ステラ女学院シーキューブおもしろかった

雑記

ステラ女学院シーキューブ見たんですけど、めっちゃおもしろいですね。

シナリオの重さがウケなかった原因っぽいですが、それがなけりゃシーキューブではない。シナリオの重さに対してもっと別のやり方があるなどという意見はクソです。別のシナリオになってしまえばそれはただの別作品です。売れる売れないとかどれだけの人におもしろいと思ってもらえるかとか、そんなもんはどうでもいいわけです。

いち視聴者でしかないのに世間の趣味に迎合するようなことを望んで”売れるもの”をつくるべきなどと考える必要は全くない。こういう社会にいるわけですから、そこまで考えてしまうのも理解は出来ますが、こんなもん娯楽にすぎないわけで、だったら独善的に自分で評価してしまえばいい。そういうわけですから、私はこの作品すごい好きですしおもしろいと言います。

昨日、師走の翁の『ピスぱめ!』という漫画を読んだんですが、これがほんとうに素晴らしかった。エロ漫画なんですけど、いろいろ感想をチェックしてたら評判が悪い部分がありました。この漫画には陵辱のシーンがあります。この漫画自体、陵辱とかそういう要素がないわけではなかったんですけど、話の筋からすると「そこまでやる?」って言いたくなるような展開だったんですね。その陵辱が公開陵辱だったのがそれに拍車をかけて、その趣味がない人たちにすれば、そんなもんは見たくなかったと言ってたわけですな。

でも、私から見たらそのシーンがなければそもそも物語として成立しない。キャラクターの人間性や信念、それに目的を考慮すれば陵辱という展開は必然的な帰結だった。でも、それは見たくない。師走の翁公(私が勝手に呼んでる愛称)も陵辱展開は批判されるとわかってたでしょう。この作家さんはベテランですから、それを理解してないわけがない。でも師走の翁公はやったわけです。なぜやったか?本人が言ったわけではないので確証はとれませんが、私はそれを描きたかったからという単純な理由だと思ってます。話の筋と作家の描きたいもの、これ以上に尊重されるものはないと思う。読者や視聴者は自分の好みでそういうものを見たくないということもありますけど、そんな声に耳を傾けてはならない。リルケの『若き詩人への手紙』にその理由を明確に言い当てている一文があります。

あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御詩作を返してきたからといって、自信をぐらつかせる。それは(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるかぎりです。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。

作家には必ず自分が描きたいものがあります。それがないものを私は作家だと思ってません。自分の描きたいものを”売れないから”とか”批判されるから”などの理由で描くことをやめてしまってはいけません。これを理想論だと言うことは簡単でしょう。ですが、理想を語れないのならばそんなものを描くのはやめてしまえばいい。キャラクターや物語を捻じ曲げてしまえば、それはすべて嘘になります。物語は嘘ですから、それをされたところで読者は見ぬくことは出来ません。わからないのです。作家が自分を殺して受けに入ったかもしれない。ですが、それで出来上がったものは間違いなく作家の個性が薄くなったものです。もしかしたら、あなたにとってそれで素晴らしいものが出来上がるかもしれない。でも、私はそんなものを認めたくない。

川上稔境界線上のホライゾン』にはこのように書いてます。

僕たちは作家だ。作家は読者の言葉に目を通しても、読者の言葉を見据えてはいけない。それをやったら、作家は読者の発想の内側にしかいられない。読者を捉えたと思った時点で、僕達は読者に捉えられる。それをせず、読者の言葉を見たら、それを裏切れ、トゥーサン。そのためのヒントを向こうが与えてくれているんだ。”これを超えたらすごいよ”と。そうすれば、その裏切りの是非は、もはや誰かが定義できるものではない。君の創作が面白ければ存続できる。つまり僕たちは、自分だけの全てを、自分が作るものの出来にかけることが出来る。それだけだ(『境界線上のホライゾンⅥ〈中〉486P)

自分の内側にある既存の認識を強化するため、或いはただ快楽を得るために読者はそれを読んでいるわけではない。自分の認識を外に向けて広げるために私たちは様々なものを読み、感じ、影響を受ける。こうするべきなどといった規定は物語には本来存在するものではなく、書きたいように作家は書いてそれを知るために読者は読む。そのとき私の世界が一つ広がる。内に閉じこもらないために知識を得たり経験を積むのであって、既にある経験を再現したければ自分の中の妄想に浸っていればいい。私たちの感想は作家がそれを超えるためのハードルに過ぎない。

逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり〈中納言敦忠〉

私はこの歌嫌いですけど、作家が読者に期待する心構えとしてはこんなものでいいんじゃないでしょうか。自分の作品を見て『昔の自分はバカだったなぁ』と言わせてやるくらいに挑戦的な気持ちでいてくれれば、今後も素晴らしい作品が続々と生まれるでしょう。おもしろいものというのは常に想像を超える。それを忘れちゃならんでしょう。それだけだ。