墓前

『月に寄りそう乙女の作法』の中に墓前で亡くなった彼の母親に語るシーンがあった。「はじめまして、お母様。私は雄星さんとお付き合いをさせていただいている桜小路ルナと申します。」という感じの挨拶から入って結構長く語るのだけど、どうにもそのシーンが滑稽に見えてならなかった。

考えてみれば墓前に向かって語るというシーンはドラマでも見たことがある。5年以上前になるだろうか。だが、当時の自分はそういうシーンに滑稽さを覚えたことがなかったはずだ。5年以上の歳月の中で自分の感性が変化したのだ。

墓前で語るというのは、目の前にはいないだれかに語る行為だ。画としては中空に話しかけているようなもので、それが真剣であればあるほど滑稽さを帯びた画になる。それが滑稽でなくなるのは墓前だからで、そうでなくても大事な故人に向かって話かけるのはどんな場所であっても厳かな雰囲気を漂わせ、滑稽さなどはかき消してしまう。

故人に向かって語りかける行為は滑稽であるはずがなく、それを笑うなどというのは咎められて然るべきだろう。大事な人に向かって語りかける行為を笑うなどとそんなことを許していいわけはない。

このことは本心からそう思っている。誓ってもいい。俺は心霊の類を信じていないが、故人を想うことは尊いことだと考えている。

だが、この本心と相反するような気持ちが存在するのもまた事実。どこかしらで墓前に向かって語る画に滑稽さを感じる自分がいる。そして、それはどれほど故人を悼む気持ちを尊く思っていても消えることはない。

墓に故人は存在しないと心底から思っているからか、墓前に語りかける行為がただ中空に向かって話かけているようにしか見えない。故人は自分の胸の中に存在する、と俺は考えている。だから、目を伏せて故人に語る画ならば見ていてすっきりするのだが、墓石に向かって返事を期待することなく一方的に語りかけるというのは見ていておかしさを感じる。

改めて思ったが、自分の中の常識や感覚と外れた行為をしているのを見ると、そこにどんな理由があろうとも違和感を感じる気持ち自体を消せることはないのだなと。

それも5年ほど前までは、違和感を持つこともなかった場面に違和感を持つようになったのだから、人の常識というのは案外簡単につくれるのかもしれないと思える出来事だった。