『月に吠えらんねえ』清家雪子

盲目の秋

 

※(ローマ数字1、1-13-21)

 

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

そのかん、小さなくれなゐの花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白こくはくな嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華ひがんばなと夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみとたたへ、
  去りゆく女が最後にくれるゑまひのやうに、
  
おごそかで、ゆたかで、それでゐてわびしく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 

※(ローマ数字2、1-13-22)

 

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃じじがあればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束わらたばのやうにしむみりと、
朝霧を煮釜にめて、跳起きられればよい!

 

※(ローマ数字3、1-13-23)

 

私の聖母サンタ・マリヤ
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母サンタ・マリヤ
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

 

IIII


せめて死の時には、
あの女が私の上に胸をひらいてくれるでせうか。
  その時は白粧おしろいをつけてゐてはいや、
  その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢの径を昇りゆく。

(『山羊の歌』青空文庫より)

清家雪子『月に吠えらんねえ』という漫画にこの詩が引用されていて感動した。私の感性と理解力では、たいていの詩はよくわからないが、俗人でもわかるような詩を読んでみると心打たれることがある。この詩がそうだ。

こういうものを読むと、詩の短文で鋭く本質を言い当てる凄まじさを改めて認識させられる。詩や歌は私にはわからないだけで、内容を咀嚼できれば素晴らしいものも数多くあるのだろう。だが、それを理解するための努力がめんどうくさいというだけだ。

この漫画は中原中也正岡子規萩原朔太郎与謝野晶子などの偉人たちが登場する。□(詩歌句)町というその文芸の偉人たちが集まった町を舞台に繰り広げられる物語が『月に吠えらんねえ』という作品だ。だが、この物語も詩や歌のようにまた難解だ。生きているような死体が出てきたり、数十メートルある裸婦が突然でてきたり、主人公がヤク中かと思うほどの狂人だったりして、物語の筋が全く読めない。

 だが、断片的な情報が堆積されていき話が進んでいくと、ふとしたときに情報が繋がることがある。想像もしなかった繋がりが突然出来るそれは万人にわかるようなものではなく、自分の中でしか構築されない繋がりだろう。人に説明できない突然のひらめきのようなものだ。理屈で説明できないそれは、自分だけが理解できたという優越感を与えるようなものに思えそうだが、そういうものではない。自分のなかにある目を背けたくなるような感情と繋がるのだ。それは真理や悟りのように高尚なものではなく、俗物的なものであり決して人にそれを明かしたいとは思えない。私は詩人や歌人を、人に見せたくない自我の懊悩を表現せずにはいられない狂人だと思っている。

『月に吠えらんねえ』の詩人たちはそういう人間として描かれている。しかし、本作のおもしろいところは、その狂人たちの主観として語ることで詩を理解しやすいものにしていることだ。言葉はイメージだ。だからイメージできない言葉は理解できない。詩が理解しにくいものである理由はイメージできないからだと私は思っている。しかし本作は、その欠点を漫画で表現することで克服しようとしている。詩の補助線として絵と物語が存在し、理解しやすいものとなっている。イメージできるようになった詩は、多少理解しやすいものとなり、そのおもしろさの一端に触れることができる。詩や歌がわからない人に読んでほしい作品であり、よくわからないものをよくわからないとするのではなく理解する助けとなる一作だ。

だが、理解ということほど厄介なこともない。『盲目の秋』に書かれているように。

せめて死の時には、あの女が私の上に胸をひらいてくれるでせうか。その時は白粧おしろいをつけてゐてはいや、その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、私の眼に輻射してゐて下さい。何にも考へてくれてはいや、たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、いきなり私の上にうつ俯して、それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢの径を昇りゆく。