氏賀Y太 作家の想像力

エロ漫画界の生きる伝説。

底なしの残虐描写は、拷問百科を読んでいる気持ちにさせる。どんなに高尚ぶったところで、人はどこまでも物理的な存在でしかなく、殴られれば腫れ、切られれば血が吹き出て皮膚の下には筋肉と骨と内臓のある物理的な存在であることを教えてくれた人。下腹部の性器よりも、まろび出る大腸と小腸に情熱を注いだ異形の漫画家。

世間は彼を残虐描写ばかりを好んで描く変人と呼ぶだろうし私自身もそう思うが、彼の描く作品の意義は凄まじいと思う。人は精神的な存在ではなく、物理的な存在であることを漫画で知らしめる彼の作品は読んでいて様々なことを考えさせ、示唆に富んでいる。日本社会の普通の人々が想像できる残虐性などほんとうに大したことがないのだと、彼の作品を読めば体感することができるだろう。残虐な想像性というのを普通人は考えないだろうが、これも考えてみれば恐ろしく深い世界であるとわからせられる。

叩く、殴る、刺す、切る、潰す、焼く、埋める、詰める、挽く、沈める、人をいたぶるのにも多岐に渡る方法があり、それを絵で目の当たりにすると、そうなるのかという驚きがある。

想像を生む作品はどんなものであっても価値がある、というのが私の考えだ。

規制をすることは、この真逆の行為にあたり人の想像力を奪う行為だと思っている。制限をかけるからこそ生まれる想像力があるのも、また真であるが、制限をかけることによる選択肢の広がりは本末転倒である。出来る限り制限は少なくというのが望ましい。

氏賀Y太さんの作品は読んでいて不快になることがある。だが、私が問いたいのは、あなたは不快になっただけなのかということだ。私は人の存在の物理性を認識することができ、一つ世界が広がったように感じた。人はどんなに傷めつけられようとも身体と精神は生きることに望を繋ごうとするのだと思った。私は氏賀Y太さんの作品を読んで、全く知らない世界と出会って新しいことを知って感じることができた。これは価値のあることだと思うし、価値のあることだと言いたい。真・現代猟奇伝には確かに価値があった。だが、それと同程度『まいんちゃんの日常』にも価値がある。

人間は内面に向かってばかり生きているわけではない。セックスをすれば気持ちいい、殴られれば痛い、息が出来なければ苦しい。人は身体に縛られている、人から身体性は切り離せない。人の内面の葛藤はドラマを生むけど、ドラマばかりを求めて身体性を疎かにしている傾向が増してきている現状を私は受け入れられない。内面の鬱屈が溜まっていって溢れ出そうになったとき、叫びながら全力疾走するようなドラマが私は好きだ。精神の鬱屈は身体で開放される。その程度に人は単純だ。エロ漫画は単純だ。内面的な精神を身体に託している。だから、エロ漫画は身体を使って表現する。そんなエロ漫画が、私は好きだ。氏賀Y太さんの残虐な表現もこの延長線上にある。残虐性はあくまで身体性の表現の一種だ。身体を使って表現されうる可能性の一種。

とはいえ、氏賀Y太さんの表現が不快なのは否定出来ない。だから、私が言いたいこととしては認めてくれなくていいから、黙っていてほしいということ。不快なものを見たくない気持ちはわかるが、存在も許さないという横暴は認められない。それは筋が通らない。黙っていれば活動出来る場が確保され続けれることを私は切に願っている。今は大丈夫でも十年単位で考えると、この程度のことすらも危うくなっている可能性があると感じられてしまうから、そう願わずにはいられない。

最後はヘドバンさんの言葉を借りて締めよう。ヘビィメタルがなぜ嫌われるのかという答えを探すため撮影されたドキュメンタリー映画『ヘッドバンガーズジャーニー』で出された答えを、ヘドバンさんが要約した言葉。

「ヘビィメタルは確かに反社会的で攻撃的だ。しかし、人はそういった暗いもの、社会的には『悪』とされるものすら『楽しむ』ことが出来てしまう。その事実を人に突きつけるからこそ、ヘビィメタルは嫌われるのだ。」

参考リンク

漫画好きにオススメしないエロ漫画 本当に恐い氏賀Y太 - karimikarimi

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