娯楽心中

近況として書きたいけど書けないことがある。でも、これは数ヶ月経って過去を振り返って笑い話にでもしたいことで、そうするためにも現状をなんとかしなければならない。

こんな状態でも本を読むのはやめてない。そうすると今だからこそ読んで刺さる本と出会うことがある。少々つらくめんどうな状況に追い込まれているからこそ読んでいて価値を感じる本というのは多い。今の自分のために書かれたような本や歌というのは過去を振り返ったとき記憶の手掛かりとなるもので、そういうものは個人においてとても大事なものとなる。やらなければならないタスクが多い状況では、本を読むことや音楽を聴いている暇は少ない。だけど、そういうときだからこそ出会うことに意味や価値があるものがある。

この二律背反は娯楽においてとても重要な問題だ。だれかを励ますためにそれを書いている作者がいたとしても、その人たちは目の前のことで忙しいためにそこになかなか届いてくれない。

つらいときだからこそ、無理をしてでも娯楽に触れる時間をつくることに価値がある。

娯楽に埋もれて生きてきた私は、つらいときこそより深い物語への共感を生むことを経験的に知っている。未来への不安は物語の最大の共感を生む武器だが、不安は現実の最大の敵である。不安をテーマとする作品の難しさは共感してもらえるかという点もあるが、それ以上に不安を抱えて生きている人に対して作品が届いてくれるのかというほうがより問題になると思う。

私の場合、大きな不安を抱えているときだからこそ様々なものを見て聴いて知りたいと思うが、時間的精神的な問題から制約が生まれてしまい満足いく水準まで埋もれることができない。余裕と不安のバランスは作品と向き合うとき重要な心理的要因である。それをある程度コントロールできればよりおもしろい視座を得ることが叶う。

そういうものまで娯楽に利用することを意識的に考える自分に対して病的なものを感じなくもないが、これも娯楽を中心に生きてきた自分の性なのだろう。娯楽とともに生きてきた人生だから、このまま娯楽と共に生を全う出来ればと思うが、これは果たして叶う願いなのか今のところ不明である。