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出来ることと出来ないこと。それと思考法

一日一冊本を読める人間と読めない人間がいる。一日一冊読むというのは目標設定して頑張っても読めないということだ。ページ数はハードカバーの300ページ前後を想定してもらえばいい。俺は後者なんだけど、たぶん前者の人には後者は意味わからないと思う。

人間には能力がある。で、今の時代重要なのが情報処理能力。ここでいう情報処理能力はPCに関係する能力じゃなくて、どれだけの情報を脳で処理できるかという脳の処理能力のこと。この脳の情報処理能力は向上させることは可能だけど、それが可能であることに気付かなければ、どうしたって脳の処理能力をあげることは出来ない。そのためには自分の思考法が間違っていることに気付かなければいけない。もしくは、自分の思考法の他にまた別の思考法があることに気付かなければならない。これを気付くのはめちゃくちゃにムズカシイ。自慢めいてて嫌な言い方になるが、俺はそれに気付いた。だけど、自分の思考法を変えることは至難。実際、自分には理想の思考法が存在するが、未だそれを獲得出来ていない。

思考というのは自分の生きてきた今までの時間すべてで形成されたもので、それが間違った方法だと気付いたとしても変えることは容易ではない。数十年続けてきた思考の型を変えるというのは、頭への負担が半端ではない。適正の問題もある。立体的なイメージをすることが生来苦手な人間がそれを身につけようとしても、根本的な適正のせいで身につきにくいことは十分ある。自分の思い描く理想の思考法があったとして、それが自分に身につく可能性がどの程度あるかというのは別問題だ。

思考法とはなにか。私はそれについて勉強を重ねたわけでもないし、あなたはどんな思考法をしているのかと人に聞いたこともないので、私見にすぎないが、それを言葉にするならば思考の型だ。私の思考法をたとえに出そう。まず、考えるとき頭に引っかかる言葉を探す。私の思考は基本的に音声が中心で、記憶も音声に頼る部分が大きい。文章があったとき、それを私は脳の中で声に出して読んでいる。だから、まず思考するテーマのようなものがあればそれを脳の中で声に出す。すると他に連想されるものが何個かパッと頭の中で浮かぶ。それを基本として連想されるイメージを組み立てる。この組立てた論理の正誤は9割型直感に任せている。人は殺すべからずとか、1+1の答えとか、善悪の境界とか、社会のめんどくさいしきたりみたいなものとか、そういうものを脳は識っている。記憶に残ってないものも多いが、無意識(精神分析的に言うならば前意識だろうか)に判断させる。その論理が正しいか、一つ一つの原則に照らし合わせられるほどの思考速度はないので、直感的に正誤を判断する。これが、私の思考パターン。

はっきり言うと、この思考法は相当に頭が悪い。この思考法は直感に頼りすぎているため、印象にかなり左右される。一つ一つ論理を組み立て、正誤を判断し、正解を積み重ねた判断でなければ、筋道の立った論理は成立しない。後付けで都合の良い論理を引っ付けることも出来るこの思考法は往々にして間違う。直感的に良い物は正しく、直感的に間違っているものは間違っている。この思考法を突き詰めればそれだけだ。一貫性のある主張がこの思考法では難しい。目の前に片腕のない乞食の子どもがいる、私は普通に生活する分には金に困らない生活を送っていて手には100ドルある、それを乞食にあげるのは正しいか。100ドル与えた後、それを見ていた人にこう言われる「あの子の片腕を落としたのはあの子の親だよ。片腕を落としていると同情を引いてより多く金をもらえるから」。

なぜドルかと言うと日本だと片腕のない乞食というのがイメージ出来ないから。ならドルでいいかというと、それも違うような気がするが、一番馴染みある外貨がドルだからということで。

これは直感的には金を与えるほうが正しい。だが、その金は親に取られるかもしれない。親は子どもに満足のいく食事を与えず親の享楽のための金に使われるかもしれない。それならば、信用の出来る慈善団体を探しそこに寄付するほうが確実に人の命が救えるかもしれない。

直感的判断というのはどこまで考えに入れているのか自分でも謎だ。より深度があり、確度の高い判断をしたければ、直感的な判断には頼らないのが賢明だ。直感を判断に含めないことは不可能に近いが、その比率を下げることは思考法によっては可能となる。そのための思考法を模索するのがなかなかに大変な作業ではあるが。

この説明で少しは思考法について理解してもらえただろうか。あまりわかってもらえている気はしないが、読者諸兄は私より頭のいい人たちであろうし、あなたなりの理解で補強してもらえば構わない。

さて、ここで最初の話に戻ろう。一日一冊本が読めないという話だ。何故読めないか。それは、単純に読むスピードが遅いからだ。前述したとおり、私の本の読み方は頭の中で声を出す読み方だ。これは単純に読むのが遅い。さらに困るのは本を読んでいる間、それ以外の行動が出来ない。私にとっては信じられないことなのだが、ラジオを聞きながら受験勉強していたという人がいる。私もラジオを聞きながら勉強したことがあるが、ラジオを聞いていると勉強していることが頭に入ってこないし、勉強しているとラジオが聞こえなくなる。同時に意識して両方をこなそうとするが、一分もしないうちに頭がパンクして両方とも理解できない状態になる。これを一年間続けてなんとかマルチタスクを身につけようと思ったが、ついに身につけることは出来なかった。ついでに受験に失敗した。この原因は私の思考法にあると考えている。私は声に出すだけでイメージをしていないのだ。具体的なイメージがそこにない。私は記憶力が良くない(鍛えてないという意味も込み)ので、こういうやり方をしていると、1ページ前に読んだ文章を具体的に思い出せない。前意識的な部分に記憶されていることを頼りに読んでいるので、実際使える知恵と知識にほとんどなってないのだ。書いていてやり方が頭悪すぎて絶望してきたが、幸いこれに気付いてから改善策は打っているので数年前よりは大分マシになった。たぶん私は生得的に頭が良くない(親や兄妹は一般的に言っても頭良いだけに大変申し訳ない)。だが、それは頭の使い方を間違えていた部分が大きく、今更頭良くなることは出来なくとも改善することは出来た。思考をしないことで怠けていたというものあったし、頭を使えばそれなりに返ってくる手応えもあった。叩けばタンコブが出来る程度には伸びたということだ。だが、未だに脳の処理能力は低い。だから本一冊読むのにも時間が掛かる。本を一日一冊読める人間は大抵本を読むのが早い。これは統計ないから、時間をかけて一日一冊読んでいるという人には大変申し訳ないが、大方の本を読める人間は情報処理能力が高い。それも私からすれば絶望的なレベルの差を感じるほどに高い。思考法と能力(文字通り脳の力)が違うのだと思う。この生まれた差は今までの努力と才能の差だろう。だから、私にすれば二元論のような状態に見える。本を一日一冊読める人間は情報処理能力が高く(それも努力に裏付けされたカタチで)、読めない人間は情報処理能力が別段高いわけではない。情報処理能力の高さはマルチタスクをも生み出しかねないので、情報処理能力が高くなれば情報取得率は乗数的に高くなる。もっとも、情報処理能力が高い人も上には上がいるはずで、その人なりのコンプレックスがあるだろう。上にいっても上にいっても、まだ上がいてどこまでいっても頂上は見えないのかもしれない。だから、情報処理能力が低いからといってそれを悲観ばかりする意味もない。上げたいなら上げるための努力をすればよく、また自分のことなのだからやりたければ努力するしかない。その苦悩と苦痛を受け入れられるかという壁もまた存在する。

すなわち、努力できる人間か否か。

どこまでいってもなにが出来てなにが出来ないかと問われる(もしくは自分で自分に問う)ことになり、この循環から私は逃れ得ることは出来ないのだ。そういうものを他の人が持っているのか、私はそれが気になるとです。雑文御免