筋肉少女帯-大槻ケンヂ

最近、筋肉少女帯を聴き始めた。ドハマりした。

香菜、君の頭
僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに
君がおびえぬように
香菜、明日、君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を、
君に選んであげよう
香菜、いつか恋も
終わりが来るのだから
香菜、一人ででも
生きていけるように

『香菜、頭を良くしてあげよう』より

 オタクの自意識を的確についた曲。自分が女の子を導いてあげなければというマッチョな思考が垣間見える。自らの知性に自負を持っていてそれを自認できてない人間は、きっとこの歌詞を読んではっとさせられることだろう。傲慢、矮小、諦観、様々な感情が入り乱れる詞に物語を感じずにはいられない。

 

「やあ!オレ、ドルバッキー
 みんなどして嘘ばっかり言うのかニャー
 愛も夢も口に出すもんじゃないのにニャー
 結局あれだニャー
 みんな一人で生きるのも死ぬのもおっかなくて寂しいから
 せめて道ずれを求めてるだけなんだニャー
 ネコのオレに言わせてるご主人様も情けないし
 アー、やるせねーニャー」

『暴いておやりよドルバッキー』より

 

 物語が好きであるということは、人が好きであるということと同義であると思う。物語は人生の一部を切り取ったものだ。人を主人公として、人と人とが関わることで物語が紡がれていく。物語を好むオタク(アニメ好き、漫画好き、小説好き)はどこかでこの事実に気付き始める。人はどうしてだれかと一緒にいようとするのか。この公然の秘密を表に明かしてしまうのが大槻ケンヂさんだ。

彼女の恋するやさ男は
理由あってすでに天国にいた
ひねもす男は下界の少女を見守っていたのだ
空の上からは少女の頭しか見えない
いいお天気だからもう少し生きてみようと
彼女が天をあおぐその時だけ
瞳を見ることができるのだ
だからなるだけ上を向いてお歩きなさい
それから
あまり甘い物ばかり食べ過ぎぬように

『生きてあげようかな』より

 

ひなたぼっこじーさんはな

あの世でいい塩梅

苦労もなんにも

下界に置いてきた

(中略)

「わが娘よはかなむな 人生つらけりゃ お茶飲めよ」

ひなたぼっこじーさんはな

あの世でいい塩梅

今夜もあの世のどこかで

ばーさんとボーリング

『じーさんはいい塩梅』より

 残される者にとってだれかが死ぬのはつらいことだけど、死なれたらどうせもう口なんてきけないんだから、好きなように考えればいいのだ。あの世で呑気に暮らしていて下界を見守っているかもしれない。あの世で見ている人たちは、下界にどうやって関わることができないし、あの世にいる人からすれば生きているやつらの人生なんて前説みたいなもんだ。だから人生つらけりゃお茶飲めばいい。そのくらい気負わず生きていけば気持ちだけは楽に生きられるものだ。生きることを重くせず死者を重くしない。死んだ人とあの世でまた会う前に、あの世に行く前に今しか楽しめない短い現世をもうちょっと生きてあげれば、それでいい。

僕の宗教に入れよ何とかしてあげるぜ!
犬神つきのはびこる街に やって来た男は
リュックサックに子ネコをつめた少年教祖様さ
「この僕が街の悪霊どもを追いはらってあげよう」
うさんくさげに見てる奴等に少年が言った
「この僕が怪しげなら あんたら一体、 何様のつもりだ!」

『僕の宗教へようこそ~Welcome to my religion~』より

 懐疑は知性だ。疑うことこそが現代人の知性だ。宗教を信じない、科学的でないものを信じない、実証性のないものを事実としない。だが、宗教をあり得ないと断じることが果たして知性なのだろうか。他人が見える、あると言っているものを科学的でないことを根拠として「そんなものはない」と断ずるのは果たして知的か。疑うことが知性であるなら、自分が「そんなことはない」と思っていることも疑うべきではないか。宗教化の独断を愚かと誹る前提には、科学に対する信仰が存在する。自分の信仰が正しく相手の信仰を間違っているとすることに論理的根拠は薄く、極めて感情的で人間的な思考だ。俺は一体何様になったつもりなのだろう。

『おまけの一日』

ルチャドールになるために

猛練習を積んでいた少年が

トヘデレバルサの失敗で

短いその命を落としました

憐れに思った神様は

少年におまけの一日をお与えになりました

おまけの一日 さりとて するべき事もなく

なんとなく陽はくれて その夕日を見ながら少年

「あ~ 僕の一生こそおまけのようなものだったな」

と思いました

 無為な日々を生きることほどつらいことはない。そう思うからこそ私は日々を意味あるものにするためにもがき苦しむ。生きているだけでは人生はつらすぎる。おまけのような人生になんて絶対にしたくない。

 死んでゆく 死んでゆく 死んでゆく
「やめろー! 人生は最期の武器だ 無駄弾を撃つんじゃない」
「しかし、死んでゆきます」
「だからなんだというんだ!?
逃げるのか?あきらめるのか?
一生を闇の中ですごすのか?」
「いやです」
「少年の頃、お前はテレビを見なかったのか?」
「見ました」
「思いだせ、彼らは絶対の危機の時にどうした?
もうダメだ!というその時、彼らはどうした? 答えろ!」
「タチムカッタ」
「ならばお前もそうすればいい、それをやれ!」
(中略)
「あー、やられた
愛するものが死んでいく時は 奉仕の気持ちになることよ」
「わかりかねます なぜ人間の一生は平等でないのか?」
「そんなの当たり前だわ 生きるってことは不条理ってことよ
じゃーね さよなら」
「いやです」
「少年の頃、あなたテレビを見なかったの?」
「見ました」
「思いだして、彼らはリアルな悲しみの時にどうした?
愛するものと別れ行く時彼等はどうした?答えて!」
フランダースの犬はその時、総てを受け入れた」
「ならばあなたもそうすればいい、それをしなさい!」

『221B戦記』より

 私は一体物語からなにを受け取っているのだろうか。なんのために本を読んでいるのだろうか。なんのために映画を見ているのだろうか。そこからなにも学んでいないなら、そんなものは全く見る必要はないのではないか。感動したというならば、彼らの生き様を自分のものとする努力をするべきじゃないか。少なくとも私は学ぶべき生き様があるならば、その人の生き方を模倣するべきという規律がある。だが、どうしてそうしてない。見て楽しんでそれで終わり。俺は一体なにをやっているんだろうか。そこに価値のある生き方を見つけたならば、おまけの人生が嫌だというならば、模倣して学ぶしかないはずだ。

 ならばあなたもそうすればいい、それをしなさい。

いつまで同じ場所に立ち止まっているのか。それをしているというならば、どうしてあなたは今そこにいるのか。どうして今俺はここにいるのか。それをしたいと、するべきだと思った自分の感情はいったいどこにいってしまったのか。

 それをしなさい。