女体

二次元の女体って癒される。

二次元の女体には嫌なところがない。シミひとつない肌にはツヤがあり流麗。柔らかさが強調されているものもあれば、硬い筆致で描かれていながら繊細な身体つきをしているものもある。身体つき一つとっても絵師の信念が感じられフェティッシュ。二次元の女体には絵師のエゴ、好みが詰まってる。自分の好みと一致しなければ気持ち悪いこともあるが、自分のために描かれたような絵を見つけたときの快楽は筆舌に尽くし難い。見せたくないものを描かず見せたいものを強調できる都合の良さは、疲れているときほど身に沁みる。お心遣いありがとうございます、といいたくなるような完璧に配慮された二次元の絵にはプロの魂が込められている。現実が嫌なときこそ、二次元の女体は至高の娯楽足り得る。

筋肉少女帯-大槻ケンヂ

最近、筋肉少女帯を聴き始めた。ドハマりした。

香菜、君の頭
僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに
君がおびえぬように
香菜、明日、君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を、
君に選んであげよう
香菜、いつか恋も
終わりが来るのだから
香菜、一人ででも
生きていけるように

『香菜、頭を良くしてあげよう』より

 オタクの自意識を的確についた曲。自分が女の子を導いてあげなければというマッチョな思考が垣間見える。自らの知性に自負を持っていてそれを自認できてない人間は、きっとこの歌詞を読んではっとさせられることだろう。傲慢、矮小、諦観、様々な感情が入り乱れる詞に物語を感じずにはいられない。

 

「やあ!オレ、ドルバッキー
 みんなどして嘘ばっかり言うのかニャー
 愛も夢も口に出すもんじゃないのにニャー
 結局あれだニャー
 みんな一人で生きるのも死ぬのもおっかなくて寂しいから
 せめて道ずれを求めてるだけなんだニャー
 ネコのオレに言わせてるご主人様も情けないし
 アー、やるせねーニャー」

『暴いておやりよドルバッキー』より

 

 物語が好きであるということは、人が好きであるということと同義であると思う。物語は人生の一部を切り取ったものだ。人を主人公として、人と人とが関わることで物語が紡がれていく。物語を好むオタク(アニメ好き、漫画好き、小説好き)はどこかでこの事実に気付き始める。人はどうしてだれかと一緒にいようとするのか。この公然の秘密を表に明かしてしまうのが大槻ケンヂさんだ。

彼女の恋するやさ男は
理由あってすでに天国にいた
ひねもす男は下界の少女を見守っていたのだ
空の上からは少女の頭しか見えない
いいお天気だからもう少し生きてみようと
彼女が天をあおぐその時だけ
瞳を見ることができるのだ
だからなるだけ上を向いてお歩きなさい
それから
あまり甘い物ばかり食べ過ぎぬように

『生きてあげようかな』より

 

ひなたぼっこじーさんはな

あの世でいい塩梅

苦労もなんにも

下界に置いてきた

(中略)

「わが娘よはかなむな 人生つらけりゃ お茶飲めよ」

ひなたぼっこじーさんはな

あの世でいい塩梅

今夜もあの世のどこかで

ばーさんとボーリング

『じーさんはいい塩梅』より

 残される者にとってだれかが死ぬのはつらいことだけど、死なれたらどうせもう口なんてきけないんだから、好きなように考えればいいのだ。あの世で呑気に暮らしていて下界を見守っているかもしれない。あの世で見ている人たちは、下界にどうやって関わることができないし、あの世にいる人からすれば生きているやつらの人生なんて前説みたいなもんだ。だから人生つらけりゃお茶飲めばいい。そのくらい気負わず生きていけば気持ちだけは楽に生きられるものだ。生きることを重くせず死者を重くしない。死んだ人とあの世でまた会う前に、あの世に行く前に今しか楽しめない短い現世をもうちょっと生きてあげれば、それでいい。

僕の宗教に入れよ何とかしてあげるぜ!
犬神つきのはびこる街に やって来た男は
リュックサックに子ネコをつめた少年教祖様さ
「この僕が街の悪霊どもを追いはらってあげよう」
うさんくさげに見てる奴等に少年が言った
「この僕が怪しげなら あんたら一体、 何様のつもりだ!」

『僕の宗教へようこそ~Welcome to my religion~』より

 懐疑は知性だ。疑うことこそが現代人の知性だ。宗教を信じない、科学的でないものを信じない、実証性のないものを事実としない。だが、宗教をあり得ないと断じることが果たして知性なのだろうか。他人が見える、あると言っているものを科学的でないことを根拠として「そんなものはない」と断ずるのは果たして知的か。疑うことが知性であるなら、自分が「そんなことはない」と思っていることも疑うべきではないか。宗教化の独断を愚かと誹る前提には、科学に対する信仰が存在する。自分の信仰が正しく相手の信仰を間違っているとすることに論理的根拠は薄く、極めて感情的で人間的な思考だ。俺は一体何様になったつもりなのだろう。

『おまけの一日』

ルチャドールになるために

猛練習を積んでいた少年が

トヘデレバルサの失敗で

短いその命を落としました

憐れに思った神様は

少年におまけの一日をお与えになりました

おまけの一日 さりとて するべき事もなく

なんとなく陽はくれて その夕日を見ながら少年

「あ~ 僕の一生こそおまけのようなものだったな」

と思いました

 無為な日々を生きることほどつらいことはない。そう思うからこそ私は日々を意味あるものにするためにもがき苦しむ。生きているだけでは人生はつらすぎる。おまけのような人生になんて絶対にしたくない。

 死んでゆく 死んでゆく 死んでゆく
「やめろー! 人生は最期の武器だ 無駄弾を撃つんじゃない」
「しかし、死んでゆきます」
「だからなんだというんだ!?
逃げるのか?あきらめるのか?
一生を闇の中ですごすのか?」
「いやです」
「少年の頃、お前はテレビを見なかったのか?」
「見ました」
「思いだせ、彼らは絶対の危機の時にどうした?
もうダメだ!というその時、彼らはどうした? 答えろ!」
「タチムカッタ」
「ならばお前もそうすればいい、それをやれ!」
(中略)
「あー、やられた
愛するものが死んでいく時は 奉仕の気持ちになることよ」
「わかりかねます なぜ人間の一生は平等でないのか?」
「そんなの当たり前だわ 生きるってことは不条理ってことよ
じゃーね さよなら」
「いやです」
「少年の頃、あなたテレビを見なかったの?」
「見ました」
「思いだして、彼らはリアルな悲しみの時にどうした?
愛するものと別れ行く時彼等はどうした?答えて!」
フランダースの犬はその時、総てを受け入れた」
「ならばあなたもそうすればいい、それをしなさい!」

『221B戦記』より

 私は一体物語からなにを受け取っているのだろうか。なんのために本を読んでいるのだろうか。なんのために映画を見ているのだろうか。そこからなにも学んでいないなら、そんなものは全く見る必要はないのではないか。感動したというならば、彼らの生き様を自分のものとする努力をするべきじゃないか。少なくとも私は学ぶべき生き様があるならば、その人の生き方を模倣するべきという規律がある。だが、どうしてそうしてない。見て楽しんでそれで終わり。俺は一体なにをやっているんだろうか。そこに価値のある生き方を見つけたならば、おまけの人生が嫌だというならば、模倣して学ぶしかないはずだ。

 ならばあなたもそうすればいい、それをしなさい。

いつまで同じ場所に立ち止まっているのか。それをしているというならば、どうしてあなたは今そこにいるのか。どうして今俺はここにいるのか。それをしたいと、するべきだと思った自分の感情はいったいどこにいってしまったのか。

 それをしなさい。

劇場版シュタインズゲート負荷領域のデジャヴ

もう3年近くも前の作品になるんだなぁ。

シュタインズゲート、この作品の設定は複雑に入り組んでいて時間が経ったらなかなか忘れてしまいがちだ。タイムリープと一口に言ってもそこにあるシステム、原理は作品毎に違う。シュタインズゲートタイムリープ自体をトリックに使して物語を構築しているため設定に大分はったりがきいている。後付の理屈で物語をつくったような部分もあるために細かい部分はもう大分忘れてしまっていた。タイムリープして牧瀬紅莉栖と椎名まゆりを助ける作品と覚えていても細かい設定は忘れてるために、映画を観たときにも「こんな原理が働いてるのか?」と首を傾げてしまった。

オカリンのリーディングシュタイナーの能力はまゆりとクリスを助けるのに欠かせないものだったが、この記憶保持能力はシュタインズゲート世界線での自己の存在をあやふやにさせ世界に定着することが出来なかった。

この設定は空想科学ADVから空想ファンタジーADVに変えてしまえるほど科学的な部分が抜けるものだと思う。岡部が別の世界線の記憶を持っていて、シュタインズゲート世界線と他の世界線の違いが認識できないから別世界に消える。そのためこの世界線が違うという鮮烈な記憶を与えるため過去の岡部と接触して鮮烈な記憶を与えるという話だったが、科学的には全く筋が通らない。シュタインズゲート世界線を特別なものだと認識すれば世界に定着できるというのはファンタジーでしかない。「想いが世界」を変えるというのは現実の話だしロマンもあるが、この言葉に強い想いがあれば次元を越えられるという意味はない。文字通り「想いは世界を変える」という話をやっていて、それはロマンチックだけど科学的ではない。

さて、問題はこれをどう捉えるかだ。

私としてはこれはなんの問題もない。私にとってタイムリープ自体がファンタジーだからだ。シュタインズゲートを科学的な作品で緻密に設定が練り上げられていると思う人はそれでいい。それは私の認識の問題であり、ひいては一人一人の認識の問題でしかないからだ。

なにより、本作は紅莉栖の物語だ。悪いように捉えてほしくないのだが、私は本作を女性の物語だと思った。紅莉栖の内面を掘り下げた紅莉栖のための物語。そこに科学的な要素など必要ない。緻密な設定などなくとも成立し、科学者のラブロマンスとして見せることが出来る。理性的な元来の性質で岡部を諦める紅莉栖と岡部を求める感情的な紅莉栖の二律背反。どちらの気持ちも大切で本物だからこそ引き起こるパラドクス。過去と現在が、α世界線とβ世界線が重なって引き起こるデジャヴ。いろんなものが重なった物語が『シュタインズゲート-負荷領域のデジャヴ』という作品なのだろう。

『月に吠えらんねえ』清家雪子

盲目の秋

 

※(ローマ数字1、1-13-21)

 

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

そのかん、小さなくれなゐの花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白こくはくな嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華ひがんばなと夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみとたたへ、
  去りゆく女が最後にくれるゑまひのやうに、
  
おごそかで、ゆたかで、それでゐてわびしく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 

※(ローマ数字2、1-13-22)

 

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃じじがあればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束わらたばのやうにしむみりと、
朝霧を煮釜にめて、跳起きられればよい!

 

※(ローマ数字3、1-13-23)

 

私の聖母サンタ・マリヤ
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母サンタ・マリヤ
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

 

IIII


せめて死の時には、
あの女が私の上に胸をひらいてくれるでせうか。
  その時は白粧おしろいをつけてゐてはいや、
  その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢの径を昇りゆく。

(『山羊の歌』青空文庫より)

清家雪子『月に吠えらんねえ』という漫画にこの詩が引用されていて感動した。私の感性と理解力では、たいていの詩はよくわからないが、俗人でもわかるような詩を読んでみると心打たれることがある。この詩がそうだ。

こういうものを読むと、詩の短文で鋭く本質を言い当てる凄まじさを改めて認識させられる。詩や歌は私にはわからないだけで、内容を咀嚼できれば素晴らしいものも数多くあるのだろう。だが、それを理解するための努力がめんどうくさいというだけだ。

この漫画は中原中也正岡子規萩原朔太郎与謝野晶子などの偉人たちが登場する。□(詩歌句)町というその文芸の偉人たちが集まった町を舞台に繰り広げられる物語が『月に吠えらんねえ』という作品だ。だが、この物語も詩や歌のようにまた難解だ。生きているような死体が出てきたり、数十メートルある裸婦が突然でてきたり、主人公がヤク中かと思うほどの狂人だったりして、物語の筋が全く読めない。

 だが、断片的な情報が堆積されていき話が進んでいくと、ふとしたときに情報が繋がることがある。想像もしなかった繋がりが突然出来るそれは万人にわかるようなものではなく、自分の中でしか構築されない繋がりだろう。人に説明できない突然のひらめきのようなものだ。理屈で説明できないそれは、自分だけが理解できたという優越感を与えるようなものに思えそうだが、そういうものではない。自分のなかにある目を背けたくなるような感情と繋がるのだ。それは真理や悟りのように高尚なものではなく、俗物的なものであり決して人にそれを明かしたいとは思えない。私は詩人や歌人を、人に見せたくない自我の懊悩を表現せずにはいられない狂人だと思っている。

『月に吠えらんねえ』の詩人たちはそういう人間として描かれている。しかし、本作のおもしろいところは、その狂人たちの主観として語ることで詩を理解しやすいものにしていることだ。言葉はイメージだ。だからイメージできない言葉は理解できない。詩が理解しにくいものである理由はイメージできないからだと私は思っている。しかし本作は、その欠点を漫画で表現することで克服しようとしている。詩の補助線として絵と物語が存在し、理解しやすいものとなっている。イメージできるようになった詩は、多少理解しやすいものとなり、そのおもしろさの一端に触れることができる。詩や歌がわからない人に読んでほしい作品であり、よくわからないものをよくわからないとするのではなく理解する助けとなる一作だ。

だが、理解ということほど厄介なこともない。『盲目の秋』に書かれているように。

せめて死の時には、あの女が私の上に胸をひらいてくれるでせうか。その時は白粧おしろいをつけてゐてはいや、その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、私の眼に輻射してゐて下さい。何にも考へてくれてはいや、たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、いきなり私の上にうつ俯して、それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢの径を昇りゆく。

フジバヤシ春『星くず☆ナミダ』

同人誌を紹介するのは初めてだけど、すごくおもしろい同人誌だと常々思っていたので思い切って紹介してみる。


[R-18]「星くず☆ナミダ」/「フジバヤシ春」の漫画 [pixiv]

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃と京介の近親相姦を題材とした同人誌。モノローグ多めでつくられているため客観性が増しオカズのためのエロ同人という位置からは若干外れているが、オカズという意味でも使えると思う。モノローグで語るからこそ生まれるエロさは十分だし、なにより作画が抜群に上手い。サンプルをみてもらうだけでも十分にわかると思うが、背景とキャラが溶け込んだリアルな作画をこれ以上ないレベルで仕上げている。繊細なタッチで描かれるリアルな作画が近親相姦という題材にマッチしていて、作画の完成度が非常に高い。

正直、オカズとして使うとかそういう話はどうでもいい。なぜ紹介したかといえば、圧倒的におもしろいからだ。近親相姦というテーマを俺妹本編よりもよっぽど突き詰めて考えているようにさえ思った。というより、御本家は公の出版物のために配慮しなければいけないことが多すぎて、突き詰めて書くことが出来なかったのだと考えられる。

本作は身体を重ねることで生まれる葛藤を描いている。

身体を重ねることこそが近親相姦だと言いたいわけではない。ただ、妹との恋愛というテーマから肉体関係は本来不可分だ。身体を重ねてしまったあとの後悔、未来への不安、家族や友人などへの罪悪感、そこに近親相姦作品群のおもしろさがある。俺妹では描かれなかった、これらの問題がここでは描かれている。

前述のとおり、漫画としてもおもしろくエロく出来ているので、興味のある方は是非読んでほしい。通販での『星くず☆ナミダ』の在庫はメロンブックスに少量ある程度のようなので、読みたい方は早く購入されたほうがいいかもしれません。

未確認で進行形 OP


『未確認で進行形』のアニメが終わりを迎えた。小紅のかわいさが回を重ねる毎に加速され、終盤の白夜を意識する小紅のかわいさは『けいおん』や『あいうら』に匹敵するものだった。萌えアニメとしては最高水準で個人的に歴史に残る萌えアニメだった。


「未確認で進行形」OPのイラストをじっくり見てみよう! ‐ ニコニコ動画:GINZA

このかわいい小紅たちを象徴するものはOPの写真だ。一枚の写真として完成されているカットを10秒間に圧縮して見せる。一枚でも十分に鑑賞に耐えうるものをパッパッとカットを切り替えて見せてしまう。美しい写真を1秒に満たない時間しか見せずに切り替えてしまう豪胆なOPには度肝を抜かれた。もっと見ていたいと思わされるものを見せてくれないことにはやきもきしたものの(当然一時停止して一枚一枚眺めて溜飲を下げた)、演出効果としては抜群だった。

速く切り替わることで圧縮された情報が視聴者に刻まれる。写真に切り取られた彼女たちの姿はフィクションの存在とは思えないほどに表情にあふれていて、本編とはまた違った魅力をもった”女の子”であり”女”だった。この多様な表情が、本編の彼女たちへの私たちの視線を違ったものにしてしまう。あの10秒には艶かしい現実感を伴った小紅たちの姿が写っている。週刊誌の仮想デートを想定したグラビア企画のような意図だろう。口のディティールショットや艶かしい舌のアニメーションにはエロスがあり、雪をかけてくる小紅や裸で水の中から勢いよく立ち上がっているようなを姿を背中から逆光で捉えたカットには躍動感がある。どちらも生身を感じさせキャラクターに身体性を付加している。虚構の存在として彼女たちを見るのではなく、よりリアリティのある存在として彼女たちを見ることになる。

前例があるのかは知らないがOPとしては画期的だ。OPで小紅たちの存在がより近いものになった。あれだけの作画を一秒未満の時間しか使わないのは作り手ももったいないとも思ったはずだが、それをやり遂げた作り手の剛毅さに賞賛を送りたい。また、短い時間しか使われないことがわかっていながら、素晴らしい作画をしたアニメーターの方々にも同様の賞賛を。

ただ、一つだけ不満があるのは、あの写真が販売されていないことだ。たとえOPのカットであろうとも、写真としての美しさを感じられるあの写真はファンとしては欲しいものである。是非とも販売を検討して欲しい。たとえ販売がなくともキャプを現像すればいいだけの話なのはわかっているが、これは公式で売られてほしい。OPとして非常におもしろい試みだったのは間違いなく、その証拠として写真が販売されることを願っている。

プラトーン

生き残った僕らには義務がある。戦場で見たことを伝え、残された一生、努力して、人生を意義あるものにすることだ。

 オリバー・ストーン監督がベトナム戦争を描いた映画『プラトーン』。最低限の知識として、ベトナム戦争とは冷戦下のソ連とアメリカの代理戦争である、くらいの認識があればいいかな。俺はこの程度の認識で見れたのでインテリのアメリカ人のみをターゲットとしてるような作品ではない感じ。

戦争とは、人間とは、みたいなテーマを大上段に構えて上から目線で説教するような作品ではないが、下からだけど「いいか、戦争とはこういうもんだ、ちゃんと考えて生きろよ」みたいな圧力は感じる。『JFK』を見たときにも思ったが、オリバー・ストーン作品は重い。映像から感じられる精神的な熱量がすごい。役者の出演の条件として二週間の歩兵訓練を役者に課すことという条件を付けたという話からも感じられるが、映像に対する妥協がない。だからこそだと思うが、映画に思想が色濃く出てる。始めに書いた言葉はベトナム戦争の前線にいた兵士が帰るときにいう言葉だが、このセリフは監督のセリフといってもいいだろう。オリバー・ストーン自身もベトナム戦争経験者で、この映画をつくった理由がこのセリフなんだろう。この言葉に俺は全く賛同できないが、言い切ってしいまえるところに監督の性格があらわれてる感じがする。映画は思想を伝えるものだと思うから、言い切ることは構わないが。

 紳士的米兵と野性的米兵

これ、見てたとき『ライフイズビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督)を少し思い出した。ライフイズビューティフルにはラストに少しだけ米兵が出てくる。そのときの米兵は戦車から出てきて子どもを抱き上げて助けてあげるんだけど、この映画に出てくる米兵は野性的だ。薬はするは、レイプをしようとするは、正義感を持った仲間が邪魔だから殺すは、自己利益を再優先として倫理など守ろうとしない。日本の米兵のイメージとしてチョコレートをあげる米兵(「ギブミーチョコレート」)があると思うんだけど、そこにある米兵のイメージってクリーンで紳士的なものなのね。『ハート・ロッカー』の米兵もクレイジーで野蛮な米兵で、紳士的米兵と野性的米兵のイメージの対立があるように思えた。リアリティを追求する映画ほど野蛮になっていく傾向があるから、現実は紳士的な兵士などあり得ないというのが最大公約数な答えなんだろうけど、イメージ戦略の絡みも見えてモヤモヤとさせられる。戦争映画が敬遠されがちな要因の一つにこれもあるんじゃねえかなと。

 戦場コミュニケーション

「あー体育会系のノリめんどくせー」「アメリカ人ってこんなんなんすか?」って思うのは戦場での兵士たちのコミュニケーション。日本の”空気を読む”という文化にもうんざりするが、こっちはこっちでめんどくさい。会話がアイロニー効き過ぎてたり「Fuck you」とか正面切って気軽に結構言っちゃうから、なんとなく殺伐とした感じを受ける。円滑な夫婦のコミュニケーションとかにも「なんか殺伐としてるなあ」とか感じるから、文化の違いの問題なんだろうけど、このコミュニケーションの文法の違いは未だに慣れない。薬やって「ひゃっはーパーリーナイッ」みたいなノリが『ソーシャル・ネットワーク』にもあったけど、ナチュラルにこれが出来なかったり文化的な洗礼を受けてなかったりしたら生きづらそう。

洋画を見て一番勉強になるのは、日本だろうとアメリカだろうとヨーロッパだろうと、自分の理想とするような世界は基本的にはないから、自分が環境に適応して居心地の良い場所をつくるなり見つけるなりするしかない、ってことですね。

あと、戦争を通して人間の本質を浮かび上がらせてるみたいな批評もあるけど、これは人間の本能的な行動を描いてるだけだと思うので、本質ではないと思う。殺されたくないから殺すのは本能、戦場において性欲が高まるのは本能。

本能=本質ではないということだけは言っておきたい。まあ、これは俺の解釈で、こういう側面はわりとどうでもいいと思ってるので、人それぞれ考えれば別にいいですが。