嫉妬

嫉妬を愛することが出来ない限り人を愛することは出来ないだろう。

人を愛するとは、愛憎相半ばして人を愛するという意味でだ。人の嫌な部分を拒絶したままで人を愛することは出来る。相手のことをなにも知らないままに好きになる幼少期の恋のように、相手のことを知らないままで人はなにかを愛することができる。私が思うに熟年夫婦というのは愛憎相半ばで相手を愛せた夫婦と惰性で一緒にいるだけの夫婦の二つに別れる。夫婦になるということは生活をともにするということだ。それは苦労も相手の嫌な部分も引き受けて一緒にいるということにほかならない。相手の嫌な部分も引き受けて、それでも好きと言えるのが愛憎相半ばした愛だ。それは純粋な好意によって生まれた感情が嫌な部分すらも愛によって包み込むことが出来たからだろう。愛憎相半ばした愛を互いに注げた夫婦は受難によって揺らぐことはない。大抵の苦労ならば愛しているからという原動力で一緒にいることをやめないからだ。

一方で愛憎相半ばしない愛は受難を乗り越えられない。相手の嫌な部分を受け入れて愛せなければ、嫌悪の感情が好意の感情を飲み込んでしまうからだ。苦労が愛情の容量を越えてしまえば、愛情は破綻するだろう。惰性で一緒にいる夫婦は社会の慣習や損得に縛られているから離婚しないだけで、相応の苦労が訪れれば自然と関係は崩壊するだろう。

人というのは極めて愚かな生き物だ。見たくない気持ち悪い側面を数えきれないほど備えてしまっている。だが、美しい側面もある。その美しさに魅入られ興味を注ぐ。だが、時間の経過とともに醜悪な側面が見え出してくる。そのとき、その醜悪さをどのように受け入れるかで愛のカタチは変わるのだと思う。醜悪さすらも愛せるようになったとき、その愛はちょっとやそっとでは揺らがない強固なものになる。愛情と嫌悪は常に天秤にかけられている。この天秤の傾きによって愛情は変化し、ときに天秤自体が壊れてしまうような自体に陥ることもある。人の生き方はそれぞれあるが、この天秤の在り方こそ愛情にとってもっとも重要な部分だ。愛憎相半ばして愛せるものに出会えている人は揺らがない。願わくば、自分もそのようなものに出合い愛を熟成させてみたいものだ。生きるよすががなければ私は長い人生を歩んでいける気がしない。こと生きることがそう難しくなくなっている現代日本では愛するものがなければ生き続けることが苦痛でしかない。

銀の匙

忘れそうだからメモ。

今年の3月頃にノイタミナラジオに岸本卓さんと伊藤智彦さんが出演していた。伊藤智彦さんといえば『銀の匙』二期になったらなぜか監督から音響監督に変更になっていて一部ファンたちをざわつかせた。

以下、要点箇条書き

・(音響監督になったのはなぜ?)同時期に多くの仕事が重なり監督業は不可能と判断したため

・おそらくだが監督から音響監督への変更はアニメ史上初

・岸本:出合監督は調整型の監督

・岸本さん出合監督をべた褒め

・伊藤さんと岸本さんがすごい仲がいい(ここ一年で一番一緒に飲んだ)

・岸本:漫画銀の匙担当が原作改変のアイデアを次々出してくるのから守るのに苦心

・半年前には脚本はあがっていた

・岸本:脚本の最初の相談を伊藤さんにしないようにした

・岸本宅ご夫婦セックスレス

ノイタミナラジオは基本的にアニメに関係ないどうでもいい話しかしない番組で半分くらいの時間を岸本さんのセックスレス話に割いてもそれで通常運転。気になる人はラジオCDで。

氏賀Y太 作家の想像力

エロ漫画界の生きる伝説。

底なしの残虐描写は、拷問百科を読んでいる気持ちにさせる。どんなに高尚ぶったところで、人はどこまでも物理的な存在でしかなく、殴られれば腫れ、切られれば血が吹き出て皮膚の下には筋肉と骨と内臓のある物理的な存在であることを教えてくれた人。下腹部の性器よりも、まろび出る大腸と小腸に情熱を注いだ異形の漫画家。

世間は彼を残虐描写ばかりを好んで描く変人と呼ぶだろうし私自身もそう思うが、彼の描く作品の意義は凄まじいと思う。人は精神的な存在ではなく、物理的な存在であることを漫画で知らしめる彼の作品は読んでいて様々なことを考えさせ、示唆に富んでいる。日本社会の普通の人々が想像できる残虐性などほんとうに大したことがないのだと、彼の作品を読めば体感することができるだろう。残虐な想像性というのを普通人は考えないだろうが、これも考えてみれば恐ろしく深い世界であるとわからせられる。

叩く、殴る、刺す、切る、潰す、焼く、埋める、詰める、挽く、沈める、人をいたぶるのにも多岐に渡る方法があり、それを絵で目の当たりにすると、そうなるのかという驚きがある。

想像を生む作品はどんなものであっても価値がある、というのが私の考えだ。

規制をすることは、この真逆の行為にあたり人の想像力を奪う行為だと思っている。制限をかけるからこそ生まれる想像力があるのも、また真であるが、制限をかけることによる選択肢の広がりは本末転倒である。出来る限り制限は少なくというのが望ましい。

氏賀Y太さんの作品は読んでいて不快になることがある。だが、私が問いたいのは、あなたは不快になっただけなのかということだ。私は人の存在の物理性を認識することができ、一つ世界が広がったように感じた。人はどんなに傷めつけられようとも身体と精神は生きることに望を繋ごうとするのだと思った。私は氏賀Y太さんの作品を読んで、全く知らない世界と出会って新しいことを知って感じることができた。これは価値のあることだと思うし、価値のあることだと言いたい。真・現代猟奇伝には確かに価値があった。だが、それと同程度『まいんちゃんの日常』にも価値がある。

人間は内面に向かってばかり生きているわけではない。セックスをすれば気持ちいい、殴られれば痛い、息が出来なければ苦しい。人は身体に縛られている、人から身体性は切り離せない。人の内面の葛藤はドラマを生むけど、ドラマばかりを求めて身体性を疎かにしている傾向が増してきている現状を私は受け入れられない。内面の鬱屈が溜まっていって溢れ出そうになったとき、叫びながら全力疾走するようなドラマが私は好きだ。精神の鬱屈は身体で開放される。その程度に人は単純だ。エロ漫画は単純だ。内面的な精神を身体に託している。だから、エロ漫画は身体を使って表現する。そんなエロ漫画が、私は好きだ。氏賀Y太さんの残虐な表現もこの延長線上にある。残虐性はあくまで身体性の表現の一種だ。身体を使って表現されうる可能性の一種。

とはいえ、氏賀Y太さんの表現が不快なのは否定出来ない。だから、私が言いたいこととしては認めてくれなくていいから、黙っていてほしいということ。不快なものを見たくない気持ちはわかるが、存在も許さないという横暴は認められない。それは筋が通らない。黙っていれば活動出来る場が確保され続けれることを私は切に願っている。今は大丈夫でも十年単位で考えると、この程度のことすらも危うくなっている可能性があると感じられてしまうから、そう願わずにはいられない。

最後はヘドバンさんの言葉を借りて締めよう。ヘビィメタルがなぜ嫌われるのかという答えを探すため撮影されたドキュメンタリー映画『ヘッドバンガーズジャーニー』で出された答えを、ヘドバンさんが要約した言葉。

「ヘビィメタルは確かに反社会的で攻撃的だ。しかし、人はそういった暗いもの、社会的には『悪』とされるものすら『楽しむ』ことが出来てしまう。その事実を人に突きつけるからこそ、ヘビィメタルは嫌われるのだ。」

参考リンク

漫画好きにオススメしないエロ漫画 本当に恐い氏賀Y太 - karimikarimi

ヘドバンしながらエロ漫画! 陵辱・鬼畜エロを『楽しむ』ことについて

アクトオブキリング

映画「アクト・オブ・キリング」|公式サイト 2014年4月 シアター・イメージフォーラム他 全国順次公開

1965年9月30日、この日インドネシアでクーデターが起きた。9月30日事件と呼ばれるその日50万人以上が虐殺された。その後、政権は転覆。政権を奪った者達の実行部隊であった虐殺者たちはインドネシアで英雄と呼ばれるようになった。英雄となった彼らは、虐殺者被害者たちへの取材・報道を禁じた。ゆえに、メディアが被害者を報道するのは難しい。ならばと発想を逆転させたのが、監督のジョシュアオッペンハイマー。被害者への取材が無理ならば、加害者たちに取材をすればいいと、虐殺で英雄になった彼らに取材をした。英雄と呼ばれる彼らは、虐殺をすでに正当化しきっている。だから虐殺の様子をインタビューしても「俺は共産主義者たちをこうやって殺してやった。」と誇らしげに語る。そんな彼らに対して「その虐殺を実際にあなたたちが演じてくれないか」と持ちかけて実現したのが、この映画だ。

本作は、虐殺者たちが当時の虐殺を再現する様子を映したコメディであり、ドキュメントである。

観に行く前には予備知識があったほうがいいので、公式サイトを読んでおくといい。

大相撲12日目 横綱という地位

この日の相撲は、横綱という位を考えさせられる一日だったように思う。

白鵬○ 寄り切り ●稀勢の里

ともに一敗同士、優勝争いの相星決戦で期待された一番は殊の外あっさり決まってしまった。白鵬が左をおっつけ右を差し寄り切り。圧勝。完勝。稀勢の里はなにも出来ずに終わった。この取組の肝は立合いが合わなかったこと。稀勢の里は二度つっかけてしまい三度目の立合いでようやく成立した。しかし、これもつっかけたものを一度引いて取り直したもので、白鵬のタイミングで取られた一番となった。白鵬に勝つのはただでさえ厳しい。まともにやれば稀勢の里の勝率は三割あればいいほうだろう。自分のタイミングで仕掛けられなければ、その時点で稀勢の里の負けはほとんど決まったようなものだ。しかし、白鵬側から見ればこの立合いには間違いなく駆け引きがあった。一度目つっかけた際、稀勢の里は明らかに気負いが見えた。立合いを逸っていた。そこで白鵬はじっくり時間をかけた立合いにしたのだろう。稀勢の里の取組を見ていると、気が小さいと感じることがよくある。稀勢の里が優勝できないのは元来の気の小ささに由来すると私は思っている。大一番で稀勢の里は力を発揮できない。むしろ萎縮して普段の力を発揮できず負けるようなことが多い。優勝争いをしている過去の終盤戦の取組を見れば、それは明らかだ。稀勢の里横綱待望論をかける人は多いが、私は稀勢の里横綱になるのは相当難しいと思っている。稀勢の里は強いが、大一番で弱い。大一番で力を発揮するタイプが横綱になる。今場所から横綱に昇進した鶴竜はそういう意味で見事だ。横綱昇進のチャンスを一発でモノにした。初の昇進のチャンスで一発で掴んだのだ。絶対的な横綱白鵬がいる現状では横綱になれるチャンスがそうそう訪れるはずもない。だから少ないチャンスをモノに出来るメンタルが必要なのだが、今の稀勢の里からそれを感じることはできない。巡り合わせが良ければ稀勢の里横綱になることはあると思うが、正直私は稀勢の里横綱の器を感じない。鶴竜日馬富士が持っているものを稀勢の里から感じられないのだ。

話を戻そう。おそらく稀勢の里の気の逸りを見抜いた白鵬はじっくりと立合いを取り思い通りにもう一度つっかけさせたのだろう。稀勢の里は三度目の立合いで一度腕をついたが引いてとり直した。稀勢の里はここで待ったをとれば良かった。いや、勝ちを目指すなら取るべきだった。相手に悪いと思ったのかしらないが、ここで待ったをかけられなけれない気の小ささというか小市民ぶりが稀勢の里という感じ。観客の早く立ち会えという雰囲気や相手力士からのプレッシャーをものともしない精神がなければ、たとえ横綱になってもプレッシャーに潰されるだけだろう。

ここまで批判したようなことを書いてきたが、私は稀勢の里が好きだ。稀勢の里は立合い前に必ず相手を睨みつける。顎を引いて上目遣いで相手を見るから思いっきり睨めつけているように見えるのだ。だが、立合い前に必ず睨みつけているような力士が、実は気が弱いと思って見てみるとこれが可愛らしく見えてくる。そうやって稀勢の里を見てみると、小市民っぽい様子が取組からも随所に感じられ親しみも湧いてくる。こんな稀勢の里が似合うポジションは頂点の横綱ではなく、大関くらいが丁度いい。だから、個人的には大関稀勢の里でもうしばらくあってくれていいなと思ってる。

 鶴竜○ 反則 ●豪栄道

 鶴竜豪栄道の一番は様々な示唆に富んでいた。

控えの白鵬、物言いで勝負覆す 横綱が初のまげ反則勝ち:朝日新聞デジタル

内容的には完全に鶴竜が負けていた。だからこそ勝負審判からは物言いが上がらなかったわけだが、それを救ったのは控えていた白鵬だ。はっきり言って、控え力士が白鵬でなければ鶴竜に勝ちが転がり込んでくることはなかっただろう。なぜなら、現役力士からすればそんなことはあまりにもメリットがないからだ。勝負審判は親方衆が務めている。親方が手をあげないのに、弟子が文句をつけるなど日本的文化からすればあってはならないことだ。だから、控えの力士が物言いをつけることはルール上可能であっても実際に使われることなど滅多にないのだ。とすれば白鵬が今回それをしたのはそれなりの理由があってのことだろう。

まず、これで白鵬鶴竜に一つ貸しが出来た。正当なルールの元になされたこととはいえ、間違いなくこれは貸しになる。これは白鵬との直接対決を残している鶴竜からすればまずい。気にしないようにしたところで、頭のどこかに引っかかってしまう可能性がある。白鵬がそこまでのことを狙ってだというつもりはないが、結果的に貸しが出来たと考えておくべきだ。

だが、逆に白鵬が今回、鶴竜を救ったのは全く逆の意図があったとも考えられる。白鵬は名実ともに現役最強の横綱だ。だからこそ横綱のつらさを白鵬はよく知っている。すでに三敗している鶴竜に対して同じ横綱としての気遣いであったんじゃないかとも考えられる。横綱のつらさを知るのは同じ横綱だけだ。横綱は一つ負けただけで叩かれ、四つでも負ければ引退が騒がれる。そのプレッシャーは生半可なものではないはずで、それを知るのは横綱だけだろう。横綱同士の仲間意識、それが白鵬にあったから物言いに繋がったのではないだろうか。

もちろん、前提には白鵬のフェアプレー精神があってのことだろう。白鵬勝負への厳しさは取組を見ていればわかる。変化しない横綱相撲で勝ち続ける白鵬のプライドが物言いという決断を生んだことも間違いない。しかし、それだけで片付けるつもりはない。

スポーツを彩るのは裏側の見えないドラマであり、観客が惹きつけられるのは裏のドラマなのだから。